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会津(福島)、長州(山口)、薩摩(鹿児島)では 今でも幕末時代の遺...

会津(福島)、長州(山口)、薩摩(鹿児島)では
今でも幕末時代の遺恨が残ってるんですか?

自分の彼女(山口出身)のお姉さん(もちろん山口出身)が
結婚を考えてる彼氏(会津若松出身)と同棲することになり 彼氏の実家へ挨拶がてら遊びにいったそうです。

お姉さんは、彼氏の実家の家族に歓迎されたそうなのですが
話の中で出身地を尋ねられ、「山口県です」と答えたところ
彼氏の曾おばあさんだけ、明らかに態度が変わったそうです。

2人で東京に戻ってきた後、彼氏が両親にさぐりを入れてみたら
お姉さんが山口出身というのが嫌でたまらなかったらしいんです。

ちなみに、その曾おばあさんは大正生まれで90歳前後だそうです。
(つまり幕末とは直接関係ない世代のはず)

そこで質問です。

①幕末時代の遺恨に直接関係ない世代でも
それぞれ地元では気にしてる人が少なくないのでしょうか?
(会津、山口だけじゃなく、鹿児島も含めて)

②幕末がどうとか書いてますが、自分は正直ほとんど知識がありません。
この3県(藩)絡みの幕末の流れを、おおまかに教えてください。
(例えば「こういう流れで、こうなった訳で、会津は長州を恨んでいた」みたいな)

  • 質問した人:uyl_14さん
  • 質問日時:2010/5/26 00:20:54解決日時:2010/6/2 00:20:54
  • 回答数:5閲覧数:2,677お役立ち度:2点(5点満点中)
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ベストアンサーに選ばれた回答

私は出身が広島で、父・母方ともに毛利家(幕末では長州藩:山口~広島)
ゆかりの家系です。(母方はずっと山口県、父方はずっと広島県)

現在私は仙台在住で、福島(会津藩)によく仕事で行きますが、福島県、
特に会津地方では、長州ゆかりの人間だと話すと、露骨に嫌な顔をされます。

母方祖父はいまだに、会津憎しを常に言っていますし、父も新選組(会津所属)
を 「思想のない単なる殺人集団だ」 と言ってはばかりません。(苦笑)

はやく風化し、歴史認識も冷静に振り返って欲しいのですが・・・。

簡単に3県(福島:会津、山口:長州、鹿児島:薩摩)絡み、幕末の流れを
時系列に列挙してみます。

・ペリー来航から日本開国
→ 一般世間に攘夷(外国排除)思想が吹き荒れる。
→ 幕府を倒し(倒幕)、朝廷(天皇)主導の政治(尊皇)思想が流行する。

・長州が過激な 「尊皇攘夷」 思想を展開、朝廷の信頼を得る。
→ 長州が改革の旗頭に。同じ思想の薩摩が一歩後退。

・薩摩が会津に同盟を打診。協力関係が出来る。
→ 幕府を倒すではなく、幕府と朝廷で仲良くやろうの思想。(公武合体)
→ 長州失脚、京都から追放処分。薩摩と会津が主権を握る。
→ 長州にとって薩摩と会津が憎き敵となる。

・会津藩主が京都守護職(京都の警察)となり、新選組などを抱える。
→ 新選組は純粋に職務を実行。多数の長州藩士を容赦なく斬る。
→ このことから長州にとって会津は憎んでも憎みきれない存在となる。

・土佐を中心としたメンバ(坂本龍馬や中岡慎太郎)が 「薩長同盟」 を仲介。
→ 苦労の末、薩摩と長州が仲直り。一大倒幕組織 「薩長同盟」 が締結される。
→ 世の中の流れは一気に倒幕思想が主流になる。
→ 会津は徳川親藩。倒幕など考えられない。取締や対決姿勢をさらに強化。
→ 会津は裏切った薩摩を大いに憎む。この時点では長州より薩摩の方が憎い。

・戊辰戦争 (徳川幕府vs倒幕(薩長中心)組織) 勃発。
→ 天皇(朝廷)は薩長側を支持。徳川幕府は 「朝敵=天皇の敵」 となる。
→ 会津は徳川幕府を支え、戦争の矢面に立つ。
→ しかし諸藩の多くは 「朝敵」 の幕府を見捨てて寝返り。倒幕軍圧倒的優勢。

・倒幕軍の圧勝。徳川幕府軍壊滅。
→ 会津・鶴ヶ城、薩長軍に攻められて陥落。
→ この際、長州は積年の恨みを晴らすため、会津藩士をはじめ民衆まで虐殺。
→ 死体の処理も許さないなど、非常に厳しい処理を敢行。
→ 薩摩は割と人道的に対処。西郷さんは敬われている。
→ 会津にとって、ここで長州憎しの感情が強固なものとなる。
→ 薩摩に対しては、確かに裏切りが憎いが、人道的処置にやや緩やか。

<まとめ>
・長州 → 京都を中心に会津・新選組に、多くの藩士を惨殺された恨み。
・会津(対長州) → 鶴ヶ城決戦の際、多くの藩士・民衆が惨殺された恨み。
・会津(対薩摩) → 元々同盟を結んでいたのに裏切られた恨み。
・薩摩 →上手く立ち回ったので、さほど恨み辛みはない。


こんな感じでしょうか。
簡単に書いたつもりですが、ちょっと長くなってしまいました。

残念ながら遺恨はまだまだ深いようですね。
日本人は良くも悪くも 「地元意識」 が強い民族ですからね。
ある意味仕方ないのかなあ・・・。

しかし本当に早く仲直りして欲しいです。
少なくとも私たちの代で、何とかしたいなあと思っています。

この内容が不快なら

  • 回答日時:2010/5/26 11:55:56
  • 回答した人:nishi3611327さん

質問した人からのコメント

ありがとうございました。

コメント日時:2010/5/30 19:42:38

ベストアンサー以外の回答

表示順序:
回答日時の
4件中14件を表示
  • 直接、会津市民の方にお話をうかがったところ、確かにご高齢の方の中には今でも長州(山口県)に対する遺恨の思いの方はいるそうです。他の方もわかりやすく解説されていますが、時代背景が複雑で難しいのですが経緯をごく簡単に説明すると、時は江戸時代末期の幕末。徳川家康が江戸に幕府を開いてから250年以上経ち、財政難や外交政策等で徳川政権もガタがきていました。それに追い打ちをかけるようにアメリカの黒船ペリー来航によって開国を迫られます。
    これに対する幕府の対応等で不満が各所でみられました。
    そんな中、今この状況を好転させるには鎌倉時代以降しばらくお飾り的な存在であった京都にいる天皇のお力を借りて幕府と協力して対処すべきだという会津藩や薩摩藩らに対して、弱腰外交の幕府を倒して外国を打ち破り天皇中心の国家を造ろうとする長州藩と対立します。
    会津、薩摩VS長州での戦いもありましたが、薩摩も長州もある事件をきっかけにそれぞれ外国の強大な軍事力には勝てないことを実感し、坂本龍馬を介して薩摩藩と長州藩は手を結んで幕府を打倒して天皇中心の新政府を立ち上げました。
    目的は様々ですが、軍事クーデターによって政権奪取した薩長らをよしとしない旧幕府軍は、各地で抵抗します。これに対して薩長は西国諸藩を味方につけて旧幕府に味方する諸藩を武力討伐します。これが戊辰戦争。
    一方、徳川幕府への忠義を貫くあまりに時代の波に乗り遅れた会津は取り残されました。
    会津藩にしてみれば、幕府に反逆した長州を一緒に倒したパートナー薩摩が、いつの間にやら政敵となってしまい「ちょっと待て~、幕府への恩義はどうするの~」状態に…
    当時、強力な影響力を誇った会津藩は抵抗勢力のシンボルとして薩長軍の標的に。
    江戸無血開城後も平和的降伏をよしとせず進軍を続けた薩長軍は、ついには会津藩領に攻め込み落としました。
    ※会津の方達が今も遺恨が残っている理由は、戦後処理後です。
    誤解を与えないように書くと長州藩だけではないのですが、長州藩兵らが戦後の混乱に乗じて会津藩の市民に略奪暴行等をやったり戦争で生じた会津藩の市民の遺体の埋葬を認めず放置していたりと治安悪化が著しくなりました。
    これを恨みに思ったのと、忠義を守らず約束を破り徳川征伐に動いた薩摩藩に裏切り者という印象を持ちました。
    一部の人間のやったことではありますが、これをもって長州のやつらはとか薩摩は、とか思ったものと思われます。
    現実、明治になってできた警視庁には多くの旧会津藩士達が入り、西郷隆盛が鹿児島で反乱を起こした時には、打倒薩摩で多くの旧会津藩士達が奮戦しました。
    なぜ、幕末からしばらく経った今でも尚、長州は!みたいに思っているかは昔の長州藩兵達の行為を代々伝え聞いているからではないでしょうか?あるいはそのおばあさまのご先祖が被害を被ったとか何らかの関係性があるのかも知れません。
    しかし質問者の彼女さんのご先祖がどういう方かわかりませんが当時の多くの長州藩の市民は戦争に関係のない政局にもの申せない一般庶民だったわけで、そんな人達にまで恨みをもつのはいささか行き過ぎだと思います。
    細かい話ですが会津攻めに参加した新政府軍だけでも薩長土肥他多数の小藩思惑の違う者達が参戦していますからまとめるだけでも大変で末端の兵士の管理まではもっと大変でした。そんな中、長州藩の一部が暴走したということです。ちなみに会津藩もやられっぱなしではなくて大いに薩長を苦しめましたし、会津藩の白虎隊が有名ですが、普段は農家の息子が山口から末端の兵士として土地勘のない会津まで従軍し、白虎隊の若者の刃に倒れた名もなき長州藩兵もいるわけで。
    また、会津藩兵達が敵の進軍を遅らせるために会津藩領の村を焼き討ちしたので、住む家を奪われ、会津藩兵に恨みを持つ会津市民も当時いました。
    ちなみにそのような無法者には味方であっても厳正に処罰するとしたのが薩摩藩の中村半次郎という人物でした。
    強硬派の長州勢をおさえて会津藩に温情あふれる対処をしたことはあまり知られていません。
    この中村半次郎によれば「敵ながら(会津藩兵の)忠義を貫くその姿勢に涙した」そうです。
    ところで会津以外でも今でも各地で幕末の遺恨が残っているかに関しては、歴史的事情が違うので会津ほどではないにしても例えば山形県では庄内藩への温情あふれる対応に薩摩藩には感謝していたり、新潟県ではやむなく戦争になってしまったことで交渉役だった土佐藩に対してよく思っていない、新政府側についた秋田藩に対して旧幕府側についた盛岡藩領の一部が戦後秋田に編入されるなどした為、旧盛岡藩領の人達はう~んと思う人もいますが、いずれも会津ほどではありません。
    つまり、当時の政局を動かしていた一部の人達のによる事情によって多くの庶民が振り回されたのが幕末明治維新期だったのです。

    この内容が不快なら

    • 回答日時:2010/5/26 17:26:06
    • 回答した人:pandateosamuraiさん
  • 私の実家は会津です。

    私の母(10年前に他界。享年48歳)は、『薩摩潘が憎いから、さつま揚げも芋焼酎も嫌』って言ってました。

    産まれてから会津から出た事がなく、地域活動に力を入れてた人だったので、会津魂と言うか郷土愛と言うか…が強いからかな?と思いました。

    高校の同級生は会津から鹿児島に嫁ぎましたが、嫁いで20年。子供3人。舅姑・親戚とも仲いいみたいですよ。

    この内容が不快なら

    • 回答日時:2010/5/26 13:04:24
    • 回答した人:vvata79kazuさん
  • 鶴ケ城の落城、悲劇、まして敗れた会津藩士、家族を極寒の青森に追いやった。
    萩市が;仲良くしませんか;とエールを送ったけど会津側は断ったと言いますよ。
    いたいけない白虎隊の少年たち、15,16です。
    龍馬が長州にフランス製新式銃を数千丁、グラバーから輸入して渡した。
    恨み骨髄です。
    でも、早く風化して欲しいですね。
    http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/histo...

    この内容が不快なら

    • 回答日時:2010/5/26 08:15:49
    • 回答した人:dicktracyjapanさん
  • 簡単に言えば、明治維新で最後まで徳川幕府を支持した
    会津藩は薩摩(鹿児島)長州(山口)連合軍に破れ、
    明治政府の要職は全て薩摩・長州の人達で占められ、
    朝敵として会津の人達を弾圧した為です。
    明治・大正時代の人達はそれを恨んで居たのです。

    この内容が不快なら

    • 回答日時:2010/5/26 05:42:26
    • 回答した人:mgdby254さん

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